感染病と人類の歴史①(古代ギリシャ編)

感染病と人類の歴史①(古代ギリシャ編)

コロナウィルスやインフルエンザが猛威をふるっている2020年の年初ですが、これまで感染病で当時最強を誇っていた国家が瓦解してきた例がたくさんあります。
今回は私自身の備忘録もかねて書いていきたいと思います。

尚、この記事はコロナウィルスやインフルエンザが現存国家の転覆につながるぞと言いたいものではありませんので、あしからずご容赦ください。

また、話の中で感染病のことを「ペスト」ということがあります。
「ペスト」は詳しく言うと「ペスト菌」が原因のものになりますが、ヨーロッパの資料などでははやり病なども含めて「ペスト」と言っていることもありますので、その点をお含みおきいただければ幸いです。

古代ギリシャの例

古代ギリシャの都市国家「アテナイ」について

諸説ありますが紀元前800年頃、バルカン半島南部にポリス(都市国家)が形成され、その中の一つにアテナイがありました。
(ちなみにこのころにイリアスが「ホメロス」や「オデュッセイア」を書いていたり第1回オリンピックが開かれたりしています。)
当時は、土地的な魅力に乏しく小さな都市国家でしたが、エーゲ海や黒海での海洋交易を振興したことで、他の都市国家に並び、その後、銀山を発見したことでギリシャの大都市国家に名を並べるようになりました。

全盛期のアテナイの勢力圏(出典:wikipediaより)

その後、紀元前400年代にアケメネス朝ペルシア帝国がギリシャに遠征し、戦争状態になりました。ギリシャの都市国家は一致団結し、ペルシア帝国を撃退することに成功しました。
その後、ペルシア帝国の再来に備えるということでギリシャの都市国家によるアテナイを盟主とした「デロス同盟」が成立しました。
アテナイは、この同盟の中心地ということになり、軍事的にも経済的にも確固たる地位を確立していきました。
ちなみにこの時に、アテナイのアクロポリスに作られたのが有名な「パルテノン神殿」です。
人口も20万人を超えていたといわれています。
アテナイの繁栄は永久のものだと当時は信じられていたことでしょう。

アテナイとスパルタとの戦い「ペロポネソス戦争」

しかし、その繁栄を快く思っていない都市国家もありました。
大都市国家「スパルタ」もその一つでした。

「スパルタ教育」で現在でも名が残るスパルタです。
ここを語ると長くなるのでまた後日書きたいと思います。

アテナイが海軍の国ならスパルタは陸軍の国。
最強の重装歩兵を有するスパルタは紀元前6世紀からペロポネソス同盟の盟主であり、近隣で強大化していくデロス同盟の盟主アテナイとの関係は悪化していきました。
そして紀元前431年には「第1次ペロポネソス戦争」が勃発するにいたりました。

スパルタは人口5万人程度。
軍人の数や物資においてはアテナイが優位な状況にありました。

スパルタの勢力図(出典:wikipedia)

アテナイを襲った「ペスト」の悲劇

スパルタがアテナイに向けて侵攻をはじめたのですが、アテナイの指導者「ペリクレス」は当時最強のスパルタ陸軍と直接的な戦いは避け、籠城戦を選びました。
当時の戦争は、現地への軍隊の派兵や食料の輸送などがとても大変でした。
長期遠征は大変難しく、一定期間が過ぎればスパルタは撤退するだろうという算段でした。
また、戦力を温存し、いざというときには最強の海軍と植民地的都市と連携し勝利を得ることも考えていたと思われます。

アテナイは都市の郊外に住んでいる市民たちを城壁の中にある市街地に移動させ、籠城戦に備えました。

戦いはアテナイ勢優位で進んでいました。
しかし、ここで城壁内に感染病が蔓延し始めました。

歴史家「トゥキディデス」(トゥキディデスの罠で有名)は著書「戦史」のなかで、アテナイでペストが流行し、スパルタ軍がアテナイの貯水池に毒を投げ込んだのではとの噂があがったと記しています。

この感染病はアテナイに深刻な被害を与えました。人口の三分の一が死亡、指導者ペリクレスも息子二人とともに感染病が元で亡くなりました。
場内に市民を移動させたことが人口を過密にし、パンデミックを引き起こしたのかもしれません。

咳、くしゃみ、 激しい頭痛、目の炎症、喀血、胸痛、胃けいれん、嘔吐、下痢、高度の発熱などの症状が記録にあることから、今日では、天然痘かそれに類するものだったのではないかと言われています。

感染病流行の結果

人口の激減、指導者の死去により大打撃を受けたアテナイはスパルタに敗北しました。
その後、スパルタがギリシャ全体の指導権を握っていきます。
また、その後は制海権も失っていくことになります。

しかし、一方で皮肉なことにこの戦争の戦利品である巨額の富がスパルタの結束に亀裂を入れる結果となり、軍は弱体化が進みました。

その後、都市国家の力が均衡になったことから、小競り合い的な戦争が続き、ギリシャ全土が疲弊していきます。

その後は、「ペロポネソス戦争」に敢えて参戦しなかったバルカン半島北部の都市国家アルゲアス朝マケドニア王国(アレクサンドロス大王で有名)の台頭などありましたが、紀元前146年にローマ帝国がコリントスの戦いで、当時ギリシャで有力な同盟だったアカイヤ同盟を破り、ギリシャはアテナイもスパルタもローマの支配下となりました。

まとめ

もし、アテナイで戦争時に感染病が流行っていなければ、アテナイはスパルタを破り、制海権を広げ、ローマ帝国はバルカン半島より東征することができず、キリストがゴルゴダの丘で処刑されることもなく・・・、と考えると人類史はおそらく私たちが知っているものと違っていたのではないでしょうか。

そう考えると感染病は古代ギリシャだけではなく人類の歴史の様々なところで影響を与えているのかもしれませんね。

書いてて面白かったので、別時代の別地方も書いていければと思います。

最後までご覧いただきありがとうございました。

歴史カテゴリの最新記事

Translate »